歴史

埼玉県の狭山茶というのは比較的最近に呼ばれるようになった名前なのです。では、最初はなんと呼ばれていたのでしょうか?茶の樹は鎌倉時代、厳しい禅の修業のさい、眠気を覚ます薬として日本に紹介されたものです。明恵上人は茶を栽培するのに最適な土地を調査し山城(京都)、大和(奈良)、伊勢(三重)、駿河(静岡)、河越(埼玉)を選びました。そうです。最初は狭山茶と呼ばれていたのではなく、「河越茶」だったのです。しかし、ほかの土地でもそうであったように、川越の地でも度重なる騒乱や、戦によって荒廃してしまいました。 では、なぜ途絶えてしまわなかったのでしょうか?それは、関東地方の気候風土に関係があるようです。関東地方は北と西側を山に、東と南を海によって取り囲まれています。北からは雪雲が来ますが、高い山が雲をブロックします。その結果、乾いた強い北風が土を巻き上げてしまいます。そこで、各畑の境にお茶の樹を植えてとなりの畑との境(目印)としていました。また、このように畑の四方を茶の樹で囲うことで、土が舞い上がりにくくなるのです。

歴史

あっ、そうそう話がだいぶそれてしまいましたね。それではなぜ河越茶が狭山茶になったのか?ですが。これは、江戸時代になってからになります。武蔵国入間郡宮寺(現在の埼玉県入間市宮寺)で吉川温恭(よしかわよしずみ)という人が偶然見つけた茶の新芽を家に持ち帰り製茶して飲んだところ、香味がとてもよいことに気がつきました。同じ宮寺に住む村野盛政という人に見せたところ、茶業を興そうと決意したそうです。狭山の茶業を熱心に支援したのが山本嘉兵衛潤徳という人物でした。入間市宮寺のこのあたりの地名は当時「狭山」という地名でした。村野盛政は山本嘉兵衛に相談したところその地名を取って「狭山茶」としたそうです。狭山茶の史蹟として、この吉川温恭等の茶業実績を記念して、入間市宮寺出雲祝神社境内に「重闢茶場碑」が天保三年四月(1832年)に建立されました。以来、狭山茶は、明治時代・大正時代では輸出産業として、昭和に入ると最大の消費地東京都に近いことから、日本茶の一大産地として発展してきました。